大きな森
 
卓麼(たくま)は自分の二倍はある柵を、懸命によじ登っていた。
柵は木でできていて、一定間隔ごとに地面に刺さる太い柱には、それと垂直に細い木がなん本も打ちつけられていた。
だからわずか五才の卓麼にも上れたのだろうが、古い上にもの凄く細いそれは今にも折れてしまいそうだった。
卓麼は五才児にしてはとてもよく頭がきれたので、そのくらいの事は容易に理解する事ができた。
しかしそれでも卓麼の、この柵を越えようという意思は、消えはしなかった。
卓麼は今、兄から逃げているのだ。
五才違いの兄は最近イライラする事が多く、そのたびに卓麼にわけも無く喧嘩をふっかけて来るのだ。
この前なんて、お婆ちゃんからかかってきた電話で会話をしていた時、突然あの滝弥(たきや)が後方からドロップキックを食らわし、
卓麼はぐぇと言う奇妙な声を晒してしまうはめになった。
相手が誰であれ、そんな声は聞かれたくなかった。
だからもうそんな事にはすまいと、今日は滝弥がイライラし始めたのを逸早く察知し、こうして逃げ出して来たのだ。
 
卓麼はついに策を上りきることに成功した。その後反対側に下りるわけだが、
飛び下りるわけにもいかないので体の向きをうまく回転させ、柵に体を密着させてしがみつきながら、
一歩ずつ降りて行く作戦に出た。しかし頭では分かっていても、体が付いて来てくれない。
卓麼は体の向きを上手く変えられず、冷たい地面へと落ちて行ってしまった。
柵の向こうは暗く、たくさんの木々で覆われている。
そこは昼間でも暗く、しかも大人たちでも森がどこまで続いているかが分らない程大きいと言われ、
子供に限らず、迷って出て来られなくなる者は、少なく無かった。
そのため森の周りに、村から見える部分だけとはいえ柵を巡らし、なんびとも立ち入り禁止となっていた。
もちろん卓麼は、そんな事知るよしも、無いのだが。
 
 
 
卓麼はもろに地面へと打ちつけられ、これまで受けた事の無い様なひどい痛みに襲われていた。
とはいえ落ちた場所が常に日の当らない様な土のぬかるみの上で、しかも尻から落ちたはずだから、
これでも痛みは随分緩和させられていたのだろう。
しかし、それでも十分痛かった。
卓麼は尻をさすりながら暗い森を見た。
すると少し先のほうに、眩しいほどの光が目に入る。
この森に光が入って来ない事はこの際置いておいたとしても、
夜なのだから電燈や懐中電灯でもなければあんな風に、眼に見える程強い光が見えるわけが無い。
卓麼の他にもこの森に入ってきた人がいたのだろうか。
卓麼は光の方に静かに近付いていった。
光の中には真っ白なワンピースと、そしてそれと同じくらい白く透き通った肌を持つ女の人がいた。
卓麼はそれが分かると安心して近寄って行く。
女の人が静かに振りかえる。
白く透き通った肌。
しかし、変だ。
透き通りすぎてはいないだろうか。
それとも後ろの木まで透けて見える気がするのは、あまりにその人の肌が美しすぎたからなのか。
「ゆうれい?」
卓麼は直に問いかけた。
女の人は一瞬大きく目を見開いて、直後その場にかしずいた。
「私はこの地に住まう精霊,光華(こうか)。古の掟に従い,私を見る事が出来た貴方のお役に立つ事を誓います。」
形式張った言葉を述べ、顔を上げる。
「懐中電灯がわりにはなるわ」
淡い黄色の光の中で、いたずらっぽい笑顔が卓麼に向けられた
 
 
 
「この森の事を、何も知らずに入って来たの?」
光華は驚いたそぶりも多少見せつつ、そう言った。
「うん,だからどんな所か教えて欲しいんだ」
卓麼は光華から発せられる光を頼りにし、つまずかない様注意深く歩きながら聞いた。
「…私が今言えるのは、ここは人を惑わすけれど、それだけ大きな悲しみで覆われてるって事だけよ」
光華は静かに,悲しそうな声で言った。
卓麼は意味が理解出来たのか出来ていないのか、暫くは無言で歩き続けた。
 
 
 
そのうち辺りに白い霧が立ち込め始めた。
しかし卓麼は気にも止めず歩き続ける。
光華が声を掛けた。
「この辺りでやめて置いた方がいいんじゃ…もしかしたらすでに迷わされているかも分からないし…」
光華はさっき言っていた。ここには幻影を使い人を惑わすものが居ると。だからこの森に入ったものは抜けることが出来ないのだと。
しかし卓麼はけろりとした表情で言った。
「僕は迷って無いよ。行く場所も決まってるし、ちゃんと近付いてるよ」
そうなの?と今一納得出来なさそうな顔で光華が聞く。
「どこに、向かっているの」
「霧の中心」
「霧の?」
「うん。自然に出来た霧じゃないなら、霧の濃い方へ行けばその中心、霧を作る“物”がある場所に出るはずなんだ。
もしかしたら原因となるその“人”自身に会えるかも」
卓麼はにっと,からかう様な笑顔を向けた。
ほんの五歳の子供なのに、たまに不似合いなほど大人っぽい表情を見せる。
そして考え方などは本当に五歳児かと疑ってしまうほど大人びていた。
ただ、幽霊やその他の不思議なものをすんなりと受け入れ、新たな不思議を信じるところは歳相応と言えるかもしれない。
 
そうこうしている間に、二人はどんどんと白に覆われていった。
そろそろ光華の光も届かなくなってきて、足下が不安になって来た頃、卓麼が不意に歩くのを止めた。
何やら目指す方向から、ずっ、ずっ、と何かを擦るような大きな音がする。
前方は見えない。それは他でもない、異常に濃い霧のせいだった。
しかし突然その霧が晴れ、めき、べきと木が動き出したのを、卓麼は目の片隅に捕らえることができた。
卓麼は正直、想像もしなかったものが突然姿を現してかなり驚いていたが、あくまでその様子を悟られ無い様、
気が落ち着くまで何も話さず、そして動かなかった。
前には大きな一本の動く木があり、周りは枯れた木々とやはり枯れた雑草が取り囲んでいた。
動く木の生えている場所は、森の中でも一番暗いところにあった。
さえぎるものは何もないはずだが、とても暗い場所だった。
そして木はたったひとり、そこにいた。
 
 
 
 
卓麼よりも早く、木が低い声で話しかけてきた。
「何をしにきた、人間。ここに辿り着いた者で生きて帰った者は一人もいないと知ってのことか」
木は土がまとわりついき、重そうな根を振り上げて言った。
そしてそれは突然卓麼の方に向かって来た。
脇をたたかれ、体重の軽い卓麼は鈍い音と共に横にふっ飛ばされる。
もしかしたら、いや、もしかしなくても柵から落ちた時の痛みを通り越して、今までで一番強い衝撃だっただろう。
卓麼は遠く深い、そして真っ白な意識の中に迷いこんでしまった。
過去と現在が入り交じる。
―お兄ちゃん―
僕の声だ。
僕の声が、聞こえる。
―お兄ちゃん。今日、また面白い夢を見たんだよ―
そう言うとお兄ちゃんは必ず笑って言った。
―お、今度はどんな夢だ?お兄ちゃんに聞かせてみ。
大笑いしてやるから
僕は皆にしてはつまらない話であろうと無かろうと、とにかくそんな事はまだ分かる歳じゃなくて、
何でか分からないけど皆面白くなさそうに話を聞く中、ひとり笑って聞いてくれるお兄ちゃんにそういう話をするのが、大好きだった…
 
 
意識がさらに遠のきかける。
―卓麼―
声が,聞こえた。
今度は自分の声じゃない。
目の前には過去の自分と兄の姿がぼんやりと映っていた。
―卓麼―
また、声。
僕を、呼んでいる?
誰?
お兄ちゃん?
その瞬間、止まりかけていた思考が一気に動き出した。
ここは、どこだ?
そういえばさっき光華が相手は幻影を使い人を惑わすと言っていた。
しかしこれは幻影というより僕自身の記憶、もしくは心と言った方がしっくり来る。
…僕自身が、幻影を抜ける鍵を握っている?
卓麼は無意識のうちに映し出される記憶の中、滝弥の姿を見ていた。
手に何かを、握っている?
卓麼は走った。滝弥に向かって、思いっきり。
「この前のお返しだぁっ!」
過去の滝弥に見事なまでのドロップキックをくらわせた。
普段なら絶対に受けないはずの攻撃を避けきれなかった滝弥はその場に不様に倒れ、手からぽろりと小さな光を落とした。
卓麼がそれを掴むと、周りの景色が一気に変わる。
となりに光華が見えた。
「何故戻ってこれた?私の幻影がそれほど簡単に解けるなんて…」
戸惑った低い声が聞こえる。
しかし卓麼は何も答えず、かわりに初めて見た時から気になっていた事を聞いた。
「こんな所に一人でいて、寂しくないの?」
五歳児にしてみればもっとも的をついた意見かもしれないが、いずれにしても今言うべき事では無い。
卓麼は頭がよく切れるのに、たまに子供よりも子供らしい事を言う。
木は叫んだ。
「寂しいかだと?
お前らが私を追い詰めたくせに。
昔は木々の元で暮らしていた人々も、文明が栄えると共に我々から離れて行き、そして無造作に次々と木々の伐採をし始めた。
それが無い所でも、人が来ない事を良い事に煙草や焚き火などをして山火事を引き起こした」
「僕が友達になってあげようか?」
卓麼は話を聞いていたのかいないのか、かなり的の外れた答えを返す。
この場合、答えにすらなっていないのだが。
「僕はこの森を消したいわけじゃないから、火を使わないし、伐採もしないよ」
…それだけじゃ、足らんな」
木が驚きと戸惑いと、ほんの少しの嬉しさを秘めた声で言った。
卓麼は少し考えて、
「僕は,友達にひどいことはしない。そして、僕と君とは友達だ」
木がぶるりと震え、実体が消え始める。
―ありがとう―
木は光の粒子となって、卓麼の中に収まった。
…今のは」
困惑していると光華が言った。
「彼は地球が出来た頃にはもう存在していたと聞いたわ。
信じられないでしょ?だからきっと、人間に対する憎しみだけが強くこの地に根付いてしまったのね。
…でも彼はまだ生きているわ。」
光華が卓麼の肩を掴む。
「彼の名前は,ウッドローン。忘れないで。
これはあなたの友達の名前よ」
「ウッドローン…まだ、生きている…?」
卓麼は光の存在を思い出した。
「僕の、中に」
光華はニッコリとほほ笑んだ。
空からは,さっきまで届かなかったはずの白い月の光が、何も無い地面を静かに
照らしていた。
 
 
 
 
「卓麼ー」
「卓麼ー」
滝弥の声がする。
卓麼は思わず身構えた。
光華はクスリと笑って言った。
「それじゃあんまりよ。
最近卓麼にあたってばかりのことをちゃんと反省して、今度から気を付けようと思っていた矢先に卓麼が家出して。
それで懸命に探してやっと見つけたと思ったら、悪い噂ばかり流れるこの森に入いって行くものだから、慌てて追って来たっていうのに」
「え」
卓麼が驚いて光華を見ると、光華はにこやかにほほ笑んだ。
滝弥がやってきて卓麼を抱き締める。
「彼が卓麼を探しにこの森に入って、名前を呼び続けてくれていたから、幻影を抜ける事が出来たのよ」
光華が言った。
しかしその姿はもう見えない。
そばに駆けつけてきた滝弥が言う。
「こんな所に一人で入ったら駄目だろう」
もともとの原因は滝弥だったわけなのだが、もうそんな事はどうでも良いか。
卓麼は滝弥のびしょ濡れのシャツを掴んで言った。
「ごめんなさい、お兄ちゃん」